多治見空襲を語り継ぐ会
多治見空襲の記憶を
次世代へ
1945年7月15日、この町の空に何が起きたのか。
失われた命と、生き延びた人々の記憶を記録し、伝えています。
多治見にも空襲があった
1945年(昭和20年)、多治見市はアメリカ軍による空襲を受けました。とりわけ同年7月15日には、東海地方の飛行場を攻撃する任務で飛来したP-51戦闘機の一部が多治見の上空に現れ、太多線の列車、小泉駅、多治見駅、昭和国民学校などで猛烈な機銃掃射が行われました。重傷を負って後に亡くなった方を含め、20名以上の尊い命が失われています。
軍事施設も軍需工場もほとんどなかったこの町が、なぜ攻撃を受けたのか。当会は、体験者の証言を聞き取り、学校日誌や消防史などの記録と照らし合わせながら、その事実を確かめ、書き残す活動を続けてきました。
活動の中心を担ってきたのは、空襲を実際に体験した人たちです。小泉駅で殉職した吉田駅長のご子息・故 吉田紀光さん、県立多治見病院の看護学生だった森喜代さん、襲われた列車に乗り合わせた加藤當子さん。その多くはすでに世を去りました。先人の遺志を引き継ぎ、私たちは記憶を次の世代へ手渡していきます。
1945年7月15日
- 襲来した機
- P-51戦闘機(東海地方の飛行場攻撃に向かった約100機のうち数機が飛来)
- 被害の場所
- 牧峠の貨物列車/小泉駅/小泉支所/太多線の多治見行き列車/多治見駅/昭和国民学校
- 犠牲
- 死者20名以上。多治見駅で亡くなった方々は駅裏の安養寺に運ばれ、19人がむしろの上に並べられました。