証言
当会は2007年から、空襲を体験された方々に語っていただく場をつくってきました。学校の教室で、地域の公民館で、そして空襲のあった現場で語られた言葉を、聞き取りのまま記録しています。
県立多治見病院 ─ 焼夷弾
5月14日、県立多治見病院に焼夷弾が投下されました。当時15歳で病院に勤めていた看護学生が、その場に居合わせています。
多治見病院の真っ白な壁は黒の横縞模様に塗り替えられました。5月14日は、空襲警報が鳴り、みんなは防空壕に入っていました。私は「火事だ。火事だ。病院が燃えている。」と防空壕に告げました。「あっレントゲン室の屋根が燃えている」──あの屋根の下にはレントゲンフィルムがいっぱいです。周りに誰もいません。
私は、思わず知らず、大屋根に梯子をかけてかけ登ったのです。そして、燃えている瓦を片っぱしから落としていきました。必死でした。
燃えていた瓦を全部落として、さて降りようとふと下を見たとき、足が急にぶるぶるふるえだし、ガクガクなり、そのまま動けなくなりました。
7月15日には、この病院に多治見駅から重傷者が次々と運び込まれました。当時15歳の看護学生として県立多治見病院に勤めていた森喜代さんは、その様子を看護助手として目のあたりにしています。森さんの体験は、のちに絵本『多治見空襲と15才の私』にまとめられ、2007年に教育委員会を通じて市内の学校へ配られました。森さんは当会の事務局長として、長く語り部を務められました。
小泉支所 ─ 召集令状を配った日
7月15日は日曜日でした。多治見市役所小泉支所では、水野梅太郎さんと小池千歳さんの二人が日直勤務についていました。町内の人たちは、支所の斜め前にある丘の裾で防空壕を掘っていました。
その日は蝉の鳴き声がうるさく、よく晴れた日でした。日直だった私は配給の仕事をしていて、水野さんは本庁へ召集令状を受け取りに行かれ、その後、2軒に配り終えて支所に戻ってみえた。
お昼ご飯を一緒に食べる時に、「召集令状を配るのはこれきりにしてもらいたいね。」と話してみえました。食事が終わりお弁当箱を持って自分の椅子に座るかどうかで、撃たれてしまった。首が垂れて机にかけたままの状態でした。
自分は、隣の和室で火鉢に灰を被せて鉄瓶を乗せている間の出来事でした。あっという間のことだった。弾は何発もあり、その一発は和紙の戸籍の原本を突き抜け、床板も突き抜けていました。お隣の茅葺きが燃えるパチパチという音まで聞こえてきました。一瞬の出来事だった。
小泉駅 ─ 駅長の最期
小泉駅には駅長のほか、女性職員3名と男性職員1名が出勤していました。上りと下りの行き違いで、職員が線路のポイントを切り換えに行っている最中の出来事でした。
吉田駅長は、職員に危険を知らせるために駅長室からプラットホームへ出た時に、駅の北西から来襲した戦闘機の機銃掃射にあって倒れた。吉田駅長に当たった弾は、駅舎の庇を貫通して、頭部を貫いていた。
その時の衝撃で、駅長の帽子は線路まで飛ばされた。女性職員が、官舎の家族や駅前の食堂へ駅長が撃たれたことを知らせに走った。知らせを受けた近所の方々が、吉田駅長を戸板にのせて県立多治見病院へ運んだ。
自分が父親と対面した時は、包帯で真っ白だった。
太多線の列車 ─ 一列車皆殺し
お盆の墓参りに向かう人々を乗せた多治見行きの列車は、駅の手前で急停車したところを襲われました。
お盆で義父母の供養をと太多線に乗った。いつもならもうすぐ多治見駅という時にシュシュシュシュと10回くらいブレーキをかけてゆっくり止まりますが、その日は、シュシュシューと3回で急停車しました。
その時です。窓めがけて戦闘機がバリバリと機銃掃射をしてきました。咄嗟のことで皆は、慌てふためいて座席の下に我先ともぐり込みました。何回もバリバリバリと打ち込みます。列車の中は大騒ぎ。「お母さんが死んだ」「お兄ちゃんがやられた」──一列車皆殺しです。
私は、座席と座席の間にうずくまり、頭を両手でかかえガラスの破片、銃弾をさけ「南無阿弥陀仏」と唱えながら、父や家中の人の顔をうかべて「助けて」と叫んでいました。知らぬ間に気を失っていました。
左手甲に何かピタッと当たり気がつき、思わず右手で払いのけたら人の肉片でした。通路は、3mくらい向こうからオレンジ色の血が流れて来ましたが、辺りは誰も居ません。シーンと静かです。外へ出ようと出口へ行くと死傷者で積み上げられふさがれて出れません。手、胴、顔、体、足……。その中にあごが顔の横になってしまっている女性がいました。今でもあの顔は忘れられません。
昭和国民学校 ─ 満水の防空壕
当時昭和国民学校の助教だった校條静夫さんは、空襲警報で自宅のある豊岡町から避難先の脇之島へ家族と向かう途中、昭和国民学校が銃撃される場面をまのあたりにしました。
昭和国民学校付近へ来ると、米軍機が多治見駅付近を機銃で襲撃している様子が見えた。米軍機は修道院上空で反転してこちらへ向かってくるのが見えると同時に、猛烈な銃撃音が耳をつんざく。昭和国民学校が銃撃された。思わず道路わきの溝に身を伏せた。
当時私は昭和国民学校の助教だったので、直ぐに学校の防空壕に入った。しかし防空壕は昨夜の雨で満水だった。そんなことに頓着しておれない。膝まで水に浸かり腰をかがめていた。
また猛烈な銃撃音が頭の上で鳴った。同じ米軍機が反転してきたのか、別の米軍機であったのかわからない。防空壕で半身水につかり、目と耳を両手で押さえて、頭を泥水に入れたまま時々呼吸のため水中から頭を起こしていた。頭上の機銃音に震えていた。その時はついにここで終わりかと思ったが、やがて米軍機は去り助かった。
ネズミ岩 ─ 60年間、話せなかったこと
7月19日、記念橋の上流にあるネズミ岩で泳いでいた子どもたちが銃撃を受けました。語ってくださったのは、そのとき一緒に遊んでいた少年です。
四年生のぼくは、友だちと記念橋上流のネズミ岩で水泳をしていた。飛行機が一機飛んできた。日本の飛行機だと思いみんなで手を振っていた。
飛行機は、グルッと旋回し、バリバリ! 岩陰にかくれたり、水にもぐって逃げた。名古屋から疎開してきていた五年生の男の子が、肩から脇腹を貫通され即死した。川の水は、真っ赤に染まった。
一番深いところに沈んでいた子を探し出し、ぼくたちも一緒に警察へ連れて行かれた。警察にいたドロボーをした男の人を、僕の目の前で竹刀で打って見せて「このことは誰にもしゃべるなよ。しゃべるとこうなるぞ!」──ぼくは、あれから今まで誰にも話しませんでした。その後、男の子は、水死と報道されていた。
お母さんの、あの悲しまれた姿は、今も忘れない。
このページの出典
ここに載せた証言は、会が残した次の記録にもとづいています。
- 多治見空襲(2010年6月13日改訂原稿)
- 池田学校日誌 多治見空襲
これらの証言は、当会および多治見空襲犠牲者祈念像建立委員会が、学校での講話、現地見学会、地域FM局の収録などの場で聞き取り、記録してきたものです。読みやすさのために表記を整えた箇所がありますが、語られた内容には手を加えていません。
語り手・関係者のお名前は、会の記録や配布資料に記されているとおりに掲載しています。