本文へスキップ
多治見空襲を語り継ぐ会戦争の記憶を、次の世代へ

多治見空襲とは

1945年(昭和20年)4月から8月にかけて、多治見の町は繰り返し空襲を受けました。学校日誌や『多治見消防史』などの記録と、体験者からの聞き取りをつき合わせて確認できた事実をまとめています。

空襲の全体像

多治見への空襲は、学校日誌の記録などからみれば、1945年(昭和20年)4月22日の県立多治見病院への機銃掃射から始まりました。以後、幾度かB29や小型戦闘機の空襲に遭っています。建物や人を狙った攻撃が確認されているのは、4月22日、5月14日、7月13日、7月15日、7月19日、8月14日です。このうち5月14日と7月12日は焼夷弾の投下で、他はいずれも機銃掃射でした。

多治見には、軍事施設も大きな軍需工場もほとんどありませんでした。それでも町は攻撃を受け、駅で働く人、列車に乗り合わせた人、学校にいた人、川で遊んでいた子どもが命を落としました。「なぜこの町が」という問いは、当会が資料を読み解き続けてきた出発点でもあります。

被害のあった空襲(1945年)

  1. 4月22日県立多治見病院

    昼頃、小型戦闘機による機銃掃射。学校日誌などの記録に残る、多治見で最初に確認されている空襲です。

  2. 5月14日県立多治見病院

    昼頃、爆撃機から焼夷弾が投下されました。レントゲン室の屋根が燃えましたが、看護学生が屋根に登り、燃える瓦を落として延焼を食い止めました。

  3. 7月12日根本・小松坂の山林

    大型油脂焼夷弾100個が投下されたと『多治見消防史』に記録されています。

  4. 7月13日太多線多治見駅手前

    駅に入るカーブ手前付近の畑が機銃掃射を受けました。

  5. 7月15日市内各地

    牧峠の貨物列車、小泉駅、小泉支所、太多線の多治見行き列車、多治見駅、昭和国民学校が相次いで機銃掃射を受け、20名以上が亡くなりました。

  6. 7月19日土岐川ネズミ岩

    川で泳いでいた子どもたちが機銃掃射を受け、名古屋から疎開してきていた小学5年生の男の子が即死しました。

  7. 8月14日小泉駅

    敗戦の前日にも、小泉駅が機銃掃射を受けています。

※ 7月19日の被害について、当時の記録には「小型機来襲」としか記載がありません。

7月15日、その日に起きたこと

この日、東海地方の飛行場を攻撃する任務を受けたP-51戦闘機およそ100機が飛来し、名古屋や各務原などの飛行場を襲いました。そのうちの数機が多治見の上空に現れます。『多治見消防史』は、P-51 6機による低空掃射で死傷者約20名と記録しています。

  • 牧峠(小泉駅〜姫駅間)

    広見方面へ向かっていた貨物列車が機銃掃射を受けました。機関車は穴だらけになり機関助士が負傷しましたが、機関士とともに九死に一生を得ました。

  • 小泉駅

    職員に危険を知らせるため駅長室からプラットホームへ出た吉田駅長が、駅の北西から来襲した戦闘機の銃撃を受けて倒れました。弾は駅舎の庇を貫通していました。

  • 小泉支所(駅の西約200m)

    日直勤務中だった水野梅太郎さんが、昼食を終えて椅子に座ろうとしたところを撃たれ亡くなりました。その日の午前、水野さんは召集令状を配って回っていました。弾は和紙の戸籍原本と床板まで貫いていました。

  • 太多線 多治見行き列車

    お盆で墓参りに向かう人々を乗せた列車が急停車したところへ、窓めがけて機銃掃射が浴びせられました。車内は死傷者であふれ、出口がふさがれるほどでした。

  • 多治見駅

    駅とその周辺が襲われました。亡くなった方々は駅裏の安養寺に運ばれ、19人がむしろの上に並べられたと記録されています。

  • 昭和国民学校

    米軍機は修道院の上空で反転して学校へ向かい、猛烈な銃撃を加えました。校内の防空壕は前夜の雨で満水で、避難した教員は膝まで水に浸かって身を伏せていました。

銃撃は宮前町や御幸町の路上にも及びました。小泉駅と小泉支所で2人が亡くなり、多治見駅では重傷を負って後に亡くなった方を含めて20名以上が犠牲になっています。

ネズミ岩の子どもたち

北から南へ流れてきた土岐川が、西から東へ流れを変えて多治見の市街へ入る手前、生田川との合流あたりは深みになっていて、夏の子どもたちの格好の遊び場でした。空襲警報が鳴っているときは遊ばないようにという注意はあったでしょうが、娯楽の少ない当時、子どもたちはお構いなしに川遊びを楽しんでいました。

7月19日、記念橋の上流にあるネズミ岩で泳いでいた子どもたちの上に一機の飛行機が現れます。日本の飛行機だと思って手を振った子どもたちに向かって、飛行機は旋回して銃撃を加えました。名古屋から疎開してきていた5年生の男の子が肩から脇腹を撃ち抜かれて即死し、川の水は真っ赤に染まりました。

この出来事は当時「水死」と報道されました。一緒に遊んでいた少年は警察で口止めをされ、以後60年以上、誰にも話さないまま過ごしました。

体験者の言葉を読む

ここに記した出来事は、いずれも体験された方々の語りから確かめられたものです。聞き取りの記録をそのまま掲載しています。

証言を読む

このページは会が残した「多治見空襲」(2010年6月13日改訂原稿)などにもとづいています。